posted by MNG
at 19:11:36 │
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【喜?】 検察の強引なやり方に様々な批判が集まっているが、小林節慶大教授が法的な観点から疑問を呈している。
検察の恣意的運用が可能になるようであれば、政治資金規正法自体が違憲・無効になるという。
現在の日本の状況は、まさに検察のやりたい放題、法治国家の体をなしていないのではないのか。
検察の暴走を許してはならない。
だれが立法者なのか?
2010/02/02の紙面より
小沢一郎民主党幹事長にまつわる政治献金疑惑に関するテレビ討論に参加して、不可解な問題を発見した。
それは、政治資金規正法を作った(そして作り直すこともできる)国会議員たちが、それを運用(適用)する検察官(であった弁護士)たちに対して、不安げに、どうしたら違反になるか?と尋ねている事実である。
政治資金規正法に限らず、それに違反したら刑罰を科せられる法令については、憲法(31条)の要請として、その内容が明確でなければならない…とされて いる。それは、思えば当然で、何をしたら犯罪になるかならないかの基準がはっきりしない社会では、私たちは、いつ捜査当局の恣意(しい)で摘発されるか分 からず、不安の中に生活し続けなければならないことになる。だから、文明諸国に共通する法原則のひとつとして、明白性の原則があり、刑罰法令は、国民に とって、行為前に、許される行為の限界をはっきり示していなければ、いわば「落し穴」(罠)で、危険であるから、違憲・無効とされる。
だから、政治資金規正法に従って資金の収支を公開した報告書に誤記載があった場合に、かつては「修正」で済んでいたものが、ある時期から、それは故意 (悪意)の虚偽記載だと疑われ、家宅捜索を受け担当者が逮捕され拘置されて取り調べを受ける…と、(立法を経ずに)法律の内容が変更されたとしたら、政治 家と秘書はたまったものではない。
時々、報道で、政治資金規正法に対する検察の考えがある時点で変わった…と言われる。しかし、それはおかしい。
刑罰を科されることは、即ち、人権を剥奪(はくだつ)されることである。だからこそ、その根拠は、人権の持ち主である主権者・国民の直接代表たる国会が 定めた法律でなければならず、法律を一次的に執行する行政庁の考えの変更であってはならない。これが法治主義の大原則である。
今回の小沢献金疑惑を大きな教訓として、国会は、党派を超えて、政治献金の取り扱いについて、できる限り検察に大きな裁量の余地を残さない、明確な基準を定めるよう真剣に努力すべきであろう。
その際に、過大な会計事務が政治活動の障害にならぬよう、実態に即した安直な基準を立て、その他の点は選挙による判断に委ねる制度にしたら良いはずだ。
(慶大教授・弁護士)
http://www.nnn.co.jp/rondan/ryoudan/index.html
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